「あと千回の晩飯」
(山田風太郎  朝日文庫 2000年6月 302ページ)

 もともと朝日新聞の連載コラムのときから面白く読んでいたが,本になったのを読んでまたたいへん気に入った.ところが紹介記事を書こうとしていざ中身を見直すと,なんとも下らないことばかり書いてあって,どこに感心したのかよく分からなくなってしまう.自分は酒とたばこを飲みすぎてアル中ハイマーになったとか、毎晩二三回尿瓶のお世話になり朝には満杯のやつを高く掲げてカンパーイと叫ぶとか、長寿はあまりめでたくないから国立大往生院を設立して老人を大勢集めウイスキーを噴霧状にして吹き付けて安楽死させるといいだろうとか、ばかげたことばかり。自分が歳とるのはなんでもないが美人が年をとるのを見るにはうら悲しい、とか、地球滅亡を考えれば個人の死は児戯に類するとかいう観察もある。
 執筆を始めた当時の著者にはとくべつの病気もないのだが、いろいろの老化の兆候からあと千回くらいしか晩飯が食えないのではないかと思いついて、何を食べようかと考え始める。これが書名の由来である.そこで著者は古川ロッパや正岡子規の食事日記を読みながら今後一食たりともあだやおろそかに食べられないと考え、以後千回分の献立表を作ってみようかと思いたち、夫人から「そんなものがあれば私も助かる」といわれて張り切るのだが、やり始めてすぐにばからしくなって挫折してしまう。皮肉なことに連載執筆中に著者は発病し3ヶ月入院のあとまた連載が始まる.そして病気中の幻覚だの排泄問題だの、経過が報告される.
 ユーモアの原則は自分自身を笑い者にすることだと私は思うが、この点、山田風太郎のトボケぶりは一流である.自分の老化に苦笑しながら他人の痴呆の例も紹介しており、これも面白い.中でも武者小路実篤がこわれたレコードみたいに同じことを繰り返し書いた随筆には笑ってしまう.しかし笑いながらもやがては人ごとではないことに気づかされる.
 「いろいろ死に方を考えてみたがどうもうまくいきそうもない。私としては滑稽な死に方が望ましいのだが、そうは問屋がおろしそうもない。あるいは死ぬこと自体、人間最大の滑稽事かもしれない」というのが結論ともいえない結論になっている。そんなふうにいわれるとなんだかこれから楽な気持ちで歳をとれそうな気にもなってくる。要するにここにはまじめそうなことは何も書いてないのだが,何事もまじめばかりが正しい見方ではないということを知らず知らずに感じさせてくれるところが結局わたしが気に入った最大の点といえそうだ.

(くまそ)

 
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